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ハナもも


ハナもも

実を付けるためには、チッソ・リンサン・カリなどの肥やしに気を配ったり、幾分根詰り気味の方法も大切である。
当時中心となったのは大実であり.庭木などから取り木して作り込まれたと恩われる。
時代物の風情ある名樹も数多く出廻り、一段とにぎやかなものであった。
庭木と言えば麹町のさる豪邸の玄関先の馬車廻しの中へ植えられた.ザクロの樹容と美 事にハサミの入れられた枝先の美しさはザクロの事を思うたび、現在でも頭に浮かんで来る。
樹肌については、時代面から幾分不満の点も見られたが、荒皮性やイポ幹なども現われて来た。
何といっても一世を画したのは、捩幹の出現であり、それは大実からの変種と言われ 大実の性格をそっくり受け継ぎ樹勢は強く、幹や枝が顕著に左に捩れ、若くして時代を現わし、それが風格を示し雅趣を深め、寒樹の相は深く寂びを示すことである。
捩幹は多肥を好むものであり、仕上がりも早いために一躍我が家の鉢植え界の寵児となり、有力者からも謬められ、入札価格の記録を次々と更新して行ったのである。
産地の名古屋地方では畑作りの促成物も作られ、次第に一般にも行き渡るようになった。
どこかで秘かに作られ、大変な値段で取り引が行われるようになったのである。
八ッ房が発表されて10年位壮普及も遅々としたもので(その閻第2次大戦となる)あったがボンサイ界が戦後の放心状態の中でエゾマツ、の石付き、気付け、薬的な効果を示したこともあった。
最も早く各乗りをあげたのは、株立石付き『浮島』であり、当時は挿し木の技術もなく、ただ垂涎の的として眺めるだけのものであり、次いで笹野性。
いずれも特殊な愛好家の持ち物で、繁殖については積極的な面は見られなかった。
戦後は相次いで池上性赤芽や白芽などが発表され人気を博したが、いずれも愛好家の所有であり、業者が積極的に繁殖の手段も無いまま、八ッ房の人気は天井知らず、と言ったことろであった。
笹野性は神戸の愛好家の有と変わる、積極的に挿し木繁殖を計り、その数も数千本にたっしたと言われた。
同系統のものが笹野性、森本性、いずれも白芽が2つの名前を持ち、大半の人は現在でも別物と思っている人もいることも誠に不透明な部分も見られた。
蝦夷松の芽は新槽の先端が普通、2-3個着くだけであるが、八ッ房は新芽の葉元にそれぞれ6-7個の芽をもち、それが次の年の枝となるので、挿し木の4-5年生でも石付きの素材として好適であり、幾多の名品も現れた。
千歳丸は世に出るのが一番遅く、昭和30年代であったが、当時は挿し木の方法も安定し、普及は速やかであったが、この種は八ッ房でも最優秀との評価もあり、入気は特別なもので、投機的な面も見られるほどであった。
いずれの世界でもそうであるように需要と 供給の原則は厳然たるものであり、各地各所で数知れぬほどの素材が現れて来ると魅力は急速に失われ、20余年を経た現在では過去の物語の一頁となって終わったのである。
その後に出現した五葉松八ッ房もそうであったように人気物の末路は、実に惨傍たるもので五葉松も瑞祥なるが故に冷遇される面が多く、蝦菟松にあっても温かな目で迎える者は皆無と言ってもよいのが現状と三目ったところである。
戦前には数知れぬほどあった蝦夷松の寄せ植えも大半は戦時中に消失してしまい、現在 はまったくその姿を見ることはほとんどない。
その申で当時から、注目されていた名木の数々は辛うじて残され、ボンサイ界の一角に貴重な存在として残されている。
入間社会でも見られるように優秀な後継者が次々と現れることによって次代の繁栄も約束されるものであるが、原則と言うものはいずれの世界にあっても変わることはないと思われる。
ボンサイはその根本は『稚』の道であり、別の言葉で言えぱ趣味の世界であるが、今日の世状は流通面が主導性をもち、それに乗11遅れたものはしばらくの間、沈黙の他はない。
ボンサイの世界にもそのような物はかなり多い.その結果はこの世界の沈滞を招く遠因でもある。
ボンサイは実用品ではなく微妙に揺れ動く人々の心の動向にようって方向の変わるものである、これに携わる人々の苦心も容易ではない。

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